住職法話

住職法話(3)

「親鸞さまは、私のとなりにいらっしゃる」

ご本山・本願寺(西本願寺)では、『御正忌報恩講』が1月9日~16日まで勤修されます。『御正忌報恩講』とは、宗祖・親鸞聖人のご法事です。浄土真宗の全ての寺院で、この法要は必ずお勤まりになります。必ずお勤まりになるということは、浄土真宗では、一番大切にしている法要ということです。

浄土真宗の御教えは、阿弥陀さまが、生死(しょうじ)を抱えたこの私に、“必ず救う われにまかせよ”と“ナムアミダブツ”のお念仏となって、死ぬるいのちから浄土に生れ往くいのちとして、この私を抱いて抱えてともに歩んでくださっています。

この“ナムアミダブツ”とお念仏申す人生は、生死の身に気づかされながらも、お蔭さまとこのいのちにお礼を申し上げ、生死を超える唯一の大道となる人生であります。このことを親鸞聖人がよろこびをもってあきらかにされました。

さて、本願寺は2つの御堂があり、親鸞聖人のご木像・御真影(ごしんねい)をご安置しているの御堂が「御影堂」(ごえいどう)です。この「御影堂」にて『御正忌報恩講』がお勤まりになります。「御影堂」では、通常はお晨朝といいまして毎朝『正信偈』(親鸞聖人著)のお勤めがあります。お勤めの後には、僧侶によるご法話があります。これを御堂布教(みどうふきょう)といいます。

この御堂布教、以前は無かったそうです。なぜ無かったか?それは、『正信偈』がそのまま親鸞聖人のご法話だからです。『正信偈』のお勤め、それは今もここに親鸞聖人さまがご法話され、そのお言葉をお勤めの中で口にさせていただき、お聴聞させていただいているのです。そこに、親鸞聖人以外の者が口を挟んではいけません。つまり、御堂布教の必要が無かったということなのです。ただ、時代とともに少しでもお聴聞のご縁をということで、御堂布教を設けられたそうです。

私事で失礼しますが、以前、本願寺での布教(常例布教)を経験させていただきました。本願寺での布教は、想像を越える緊張感があります。緊張からか出講中はほとんど睡眠がとれませんでした。いよいよ最終日の御堂布教をもって、その任が解かれるのです。緊張感から解放され、ホッと安心する瞬間を迎えます。

実は、そのホッと安心した瞬間に、尊い出遇いがあったのです!

勝手ながら想像していたことがありました。全ての布教が終わり、合掌礼拝して御真影さまを仰ぎ見た時に、きっと御真影さまが『お疲れさまやったね』との優しい表情で私を労ってくださるかと思っていました。ところが違いました。『ちゃんと勉強しなさいや!』と厳しいお姿に見えてきたのです。しかし、その瞬間にこの口から“ナムアミダブツ...”とお念仏がこぼれ、感動で涙が溢れてきたのです。

親鸞聖人、御真影の御前にてご法話をさせていただいたこと、この口をついてご法話をさせていただいたこと、なんともったいないことであろうか。申し訳ない思いと同時に、この尊いお育てに“ナムアミダブツ”とお念仏がこぼれてきたのでした。

今一度、御真影を仰ぎみますと『お念仏に出遇わせていただいたな...よかったな...ともにお念仏申すぞ...ナムアミダブツ...』と、親鸞さまがご一緒にお念仏申してくださいました。

 さあ、本願寺の『御正忌報恩講』にお参りしましょう!『御正忌報恩講』に限らず、是非一度は本願寺にご参拝いただき、御真影さまに額ずいて、親鸞聖人ともにお念仏申しましょう!

合掌