住職法話

住職法話(2)

「迷子にさせない!」

忘れもしません。今から43年前、私が小学校2年生の時でした。福岡市天神にあるデパート・岩田屋の屋上で迷子になりました。当時の岩田屋は今の場所ではありませんで、現在のパルコというショッピングビルが当時の岩田屋でした。屋上には観覧車などの乗り物や、たくさんの遊具がありました。おそらく遊ぶのに夢中になり、迷子になったのでしょう。

 

 父と母は、私を必死で探したようです。迷子の放送も流れました。さて、迷子の結末は…。私は、父が車を止めている駐車場へ向いました。その駐車場は、今もある天神地下街駐車場です。屋上から地下にある駐車場の車に向かったのです。今思うと、当時の私は駐車場への道のりなど、よく分かっていなかったと思います。私は不安の中、必死で車を探したことを覚えています。車を見つけた私は、疲れ果て車の横に座り込んでいました。

 そこへ父がやってきました。まさか車の所では?と思ったようです。父は、座り込んでいる私に向かって「コラッー!」とは叱らずに、「こっちにおいで」と私の手を握り、また屋上へと連れて行きました。

 でも、忘れもしません…。屋上までの道中、父の顔を覗き込むと涙いっぱいの顔でした。そして、私の手を“ギュッ”と握りしめていました。

 私は、その父の姿にこう思うのです。父は「迷子にさせてごめんな」との思いと同時に、「もう二度とお前を迷子にはさせない」という心があらわれた姿ではないかと…。

 その涙と手を握りしめてくれた姿に、父の優しくてあたたかい心が、この身を包み込んでくれました。

 今ここに「ナムアミダブツ」と合掌してお念仏申す姿は、阿弥陀さまが「あなたを決して迷子にさせない」とのお心が届き、この私を包み込んでいる証拠の姿であります。

 なぜか? それは、この私が迷子になる存在だからです。

なぜ迷子の存在なのか? それは、この“いのちの事実”に願いを持つ私がいるからです。「こうあって欲しい」「もっとこうなれ」と…。この願いは、どこまでも底知れない願いでありましょうか…。

この“いのちの事実”に思い通りにならないことに、腹が立ち、愚痴がこぼれてくる私なのです。この私のいのちのあり様を、仏教では“(しょう)()”といただきます。それは、迷いの存在ということです。

何も、このいのちに願いを持つことを悪いと申し上げているわけではありません。むしろ、この私は願いを持たずにはおれない存在なのです。

だからこそ、この私への願いであります。それが、阿弥陀さまからの願いであります。それを『ご(ほん)(がん)』といただきます。その願いが、今ここに届いている証拠が『ナムアミダブツ』のお念仏であります。『あなたを決して迷子にはさせない』と…。

方向が逆でありました。

この阿弥陀さまの願いに出遇う人生は、生死を抱えた私に、阿弥陀さまが「迷子にさせない」とご一緒くださいます。阿弥陀さまがご一緒の人生は、生死の身に気づかされながらも、この“いのち”に、唯一お礼を申し上げることのできる人生となる。生死の身だからこそと、阿弥陀さまが生死を超える人生へとご一緒くださっているのです。

本当の迷子は、迷子に気づいていない姿だそうです。

阿弥陀さまがご一緒の人生、即ち、手を合わせて『ナムアミダブツ』とお念仏申す人生は、もう迷子ではありません。

合掌